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「波乗りの歴史を知ろう」 NO.3 鎌倉物語 其の壱:古代から近代

日本の歴史をひも解いてみましょう。記録には残っていませんが遠い昔にも板こで遊んでいた子供達がいたはずです。旧石器時代から縄文、弥生、古墳時代までの主な遺跡はそのほとんどが海からさほど遠くないところで発見されています。日本列島のどこにでも貝塚があることでもわかりますが、古代から人は水辺で食料を採取していました。

半農半漁(漁業と農業の兼業)を営む、長閑な田舎だった鎌倉に、武士による初めての幕府が成立する1192年頃までの由比が浜でも夏は、子供達が板こ乗りして遊んでいたのではないでしょうか。

鎌倉時代後期成立の歴史書で、鎌倉幕府の公的な編纂と言われる『吾妻鏡』によれば、鎌倉時代は天災が続きました。大暴風雨、洪水、山崩れ、大火事などが頻繁に起り、度重なる大地震に天然痘の爆発的流行といった災厄続きだったらしいのです。日本の歴史で中世と呼ばれる乱世は、それまでの古代王朝が衰退して武士階級が台頭し、内戦に加えて初めて海外(蒙古)から侵略攻撃を受けました。いわゆる戦国時代は誰もが生きるために必死で遊んでいる場合じゃなかったようです。

この時代、別な見方をすれば「日本の変革期」に日蓮聖人という仏僧が登場しました。16才で初めて鎌倉の地を踏み波瀾の生涯の最後には神格化された日蓮さんは、仏教の価値復興者であり新しい価値創造者でもありました。辻説法で民衆のアイドルとなり、物事のタイミングを大切にし、攻撃的な論理を展開する、その教義は仏教の三国伝来(インド~中国・朝鮮~日本)の最終章であり、今日では『鎌倉仏教』と呼ばれています。日蓮さんは1222年に安房小湊(千葉県房総半島)の貧しい漁夫の家に生まれたと本人が言っています。日蓮さんも板こを使って泳いだことがあるのではないでしょうか。アウトロー(野の一匹狼)とか、アウトサイダー(野の人)と評されるその生き方は孤高のBig Waverのようです。

鎌倉には日蓮さんのようなパイオニア精神を生み出す風土があるような気がします。鎌倉幕府も武家社会の先駆に違いありません。これまで多くの芸術家や小説家や詩人やサーファーが、鎌倉の地に定住し活動の拠点としてきました。そこに共通して流れるのは世俗的権威に捕われず、精神的権威によって立つ反骨の魂ではなかったでしょうか。

近代になって軍用列車が北鎌倉の円覚寺の境内を突っ切って、段葛(若宮大路)の側に鎌倉駅ができました。日本人のお金持ちと外国人の別荘が建ち、材木座海岸に西洋式のホテルもでき、東京などから大勢の人々が遊びに訪れるようになりました。遊び上手な鎌倉人は海での遊びも本気で、工夫しました。
明治時代から百余年に及ぶ海水浴場の歴史の中でまず紹介したいのが、『フロート』と言う乗り物です。

材木座や腰越の船大工さんが作っていたという話でありますが、木材の骨組みに薄い木の板をつないで組み立てた箱型の『浮き』(ボードとは呼べない)で、舟底型のボトムでレイルにキールが付いていたらしい。中空の造りのために水抜きの栓が有り、表面にはペンキが塗ってあり、デッキにロープ(?)が付いていて、人は上に立ってオールで漕いで進むのが正統な使用法方であったって、それPADOBOじゃないですか~!!
それを海水浴場に浮かべて仲間うちでの基地にするのが、当時の姿だったらしいのです。現在50歳以上で子供の頃に由比が浜の海で遊んでいた方なら、覚えている人も多いのでは。

このフロート、昭和30年代頃までは普通に存在し、夏の由比が浜の貸しボート屋の営業品目でもあったのは間違いないのですが、いつ頃登場したアイテムかはよくわかりません。

当時の貸しボート屋さんにお話しをうかがいました。

「じいさん、ばあさんもフロートって呼んでたよなぁ・・・
良いフロートは水が入らないが、安物は板に隙間があって中に水が入る。
水が入っていると波に乗る時、フロートの傾きによって急にバランスが変わるので、先からひっくり返って(パーリング)身体をぶつけてしまう。水が入る物は隙間にシュロ縄を詰めて、パテで埋めてペンキで塗装して修理した。漕ぐためのオールもセットで貸していた。180cm位の長さの木の棒の両側にうちわみたいな形の木をはめ込むように作ってあって、8の字に動かして漕いで波に乗って遊んだ。立って漕げない人は座って漕いで、波に乗ったらロープをつかんで引いたりしてコントロールする。その頃は遊泳禁止というのは無かったし、波があれば必ず来るお客さんというのがいて、板も貸していた。波乗り用の90~100cmの板。」

そうです。いつ頃登場したかわからないアイテムのもうひとつは『洗濯板』です。洗濯機が普及するまでは、どこの家にでもある普通の家庭用品でした。現在65歳になる人の話しでは、自分のお父さんからその遊び方を教えてもらったそうです。若人に念のために説明すると、波乗りにちょうどよい大きさの板こに握るための穴が空いて持ちやすかったのでしょう。それを片手に持って泳ぎ、波乗り(ボディサーフィン)するのです。身体ひとつでは上手に波に乗れない人のための補助具であった、という話もあります。

下の写真は、1960年代にS少年らが作って売っていた「ソーサー」と、そのオーナーの宮下氏

「なんでも鑑定団」というテレビ番組で、明治時代の日本で最初の海水浴の様子を描いた、丸髷の女性が、木綿の海水着(水着とは呼べない)を着て、1メートルほどの長さの板を持っている図画をみたことがあります。結い上げた髷をぬらさないように、板につかまって海に浮いていたようです。

フロートはそのネーミングから想像して外人さんのアイデアかもしれませんが、洗濯板は日本古来のアイデアでありましょう。天下太平の江戸時代には大勢が洗濯板で板こ乗りしていたのかもしれません。
次に紹介するのが『ソーサー』と呼ばれた円く切ったベニヤの板で、イメージはコーヒーカップの下に置くあの皿です。海に向かってソーサーを投げて走って行って飛び乗る、今で言うスキムボードがこれ。アメリカで発行されていたサーフィン雑誌に紹介されていたアイデアでした。当時の子供達は浅瀬でかっ飛ばし、スピンをするのがカッコ良かったらしい。

1960年代頃まではサーフボード型やスキムボード型をした自作の板に、ペンキで名前を書いたり絵を描いたりして大切にした思い出をお持ちの方もいらしゃるでしょう。これらの遊び道具は、海水浴条例が制定されボート地区を設定されて以来、その姿を消してしまいました。貸しボート屋のアイテムはゴムボートや浮き輪に替わり、人々は四角いエアマットで波乗りするようになりました。FRP(プラスチック製)のボートが登場して、船大工という職人さんも消えてしまいました。

そしてその頃から、本格的なサーフボードを持った人達が登場するようになったらしいのです。初めは海外から持ち込まれたロングボードでしたが、やがて鎌倉でサーフボードを自作する人達が現れました。鎌倉にはこうしたパイオニア精神を持つ人々がその裁量を発揮できる土地柄と言うか、受け入れて同調する人柄があるのでしょう。その話はまたあとで・・・
1956年生まれの奥田哲プロに語らせると、「小さい頃はボディーサーフィンをして遊んだ。仲間うちでは『人間サーフィン』と呼んで、海水浴の人の足の間を潜ったりして驚かすのが面白かった。家に洗濯機があって、波乗り用の洗濯板が2,3枚あったかな、エアマットでも波乗りしたが、ほれる波だと背骨が折れそうになって、けっこうヤバかった。14才の時にサーフボードを手に入れて、家から近い稲村の砂浜に埋めておいて、友人と海に行っては掘り出してサーフィンした。他の海に出かけることはめったに無かったが、自動車と運転免許を持っている年上の人達に、大磯や酒匂に連れて行ってもらった事もある。」というのが1960年代から1970年代の話です。

1967年には、当時、東京都足立区にあった「東京サマーランド」の波の出るプール(おそらく世界初のウェィブプール)で、スティーブ・ペリンさんというサーファーが、波乗りを披露しました。当時の雑誌『SURFER』に8ページ分の写真と記事が残されています。たぶん世界初のインドアサーフィンだったのでしょう。

日本がサーフィン業界の礎を築いた1960年代後半から1970年代前半にかけては、いわゆる高度成長期と呼ばれ、日本中がエネルギッシュに変革した時代でした。オーストラリアではショートボード革命が起るなど世界のサーフィングシーンにも何回目かの変革の時代の波が押し寄せていました。
・・・つづく

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