サーフ カルチャー
サーフカルチャー
 

奥田みゆきのパドボコラム、其の一

サーフカルチャー さかな湧き、いわし上陸

 「パドボで魚釣りに行こう!」
 サーフィンよりもルアーフィッシングでスタンドアップパドルする人が多いのが最近の鎌倉。パドボに乗っての釣りという新しい試みだからそのスタイルも人それぞれ。
 鎌倉坂の下に住むユウジ君は台風からのグランドスゥェルで混雑するサーフポイントを尻目にはるか沖で悠々とスタンドアップパドルする。もしユウジ君の漕ぐ姿にロッドが見えていたらそれはトローリングしているということ。彼の背中にはロッドが装着できる専用デイパックがある。狙う魚はシーバス(鱸)だ。すでに何本も釣り上げているユウジ君、80センチをこえるシーバスを釣り上げたときにはさすがにパドボが引っ張られたということだが、魚も大物とはいえボードに乗った人を引きずっていては、すぐに疲れてしまったことでしょう。

 


 パドボのリーシュプラグにルアーを結んで曵いていたら、カマスが釣れちゃった!というのがそもそものこの釣りブームの発端「そんなんだったらオレもやる!」と言ったのがパドボを発明した私の旦那さまの奥田哲。「パドルしていて、ついでに釣れちゃったら面白いよね」とおめでたい考えで人生初めてのルアーにチャレンジした。はじめは適切なアドバイスを求めて、釣り具専門店の店員相手に理想を語った旦那様だが「パドボで立って漕いでいたら、たまたま釣れちゃった。」というその説明をまったく理解されず(当たり前だけど)逆に釣りを舐めんなとお説教される始末。でしかたないからまず買ってきたのがDVD付きHow-to本。でも、どうやって釣るかなんて考える必要はないのだ。だってパドボで漕いでいるだけで魚が本当に釣れてしまうのだ。パドボで釣りを始めて最初に釣れたのが40cmのイナダ!!でも釣れてしまって一番焦ったのが、釣り人本人だったのがおかしかった。

 

サーフカルチャー ただのビギナーズラックなのかと思っていたのだが、その後順調に実績を重ねてカマス、シイラ、サバ、イナダ等等。そしてついに念願の76cmのシーバスも捕らえた。フッコではなくもう立派なスズキだ。うちの旦那様は今や得意満面である。ルアーやロッドなどの道具も増えた。その先行投資額は、鯛100尾も買えるのではないかと思うほど、ヤレヤレ。最近はロッドホルダー仕込みのウエストバックを腰に巻いて、竿を立てて漕ぐのを考案した。あたりがあるとググッと後ろに引かれて、ボードにブレーキがかかるのですぐわかる。パドルを足の間において、流さないように片足で踏み付ける。おもむろに竿を手に取ったら、そこからは慎重に巻いてゆく。魚影が見えたら、ばらさないように網に誘導する。この時点ではボードに座った方が安全だ。手元に来た獲物の処理も人それぞれに、数々のアイデアが見られる。伊東家の食卓をも唸らせるのが「使い捨てネット作戦」台所の排水溝に使用する小さな網を手にはめて、そのまま獲物をつかむとよいそうだ。魚があばれても滑らず逃がさず、そのまま網を裏返すように入れてしまえばオッケー。家の流しの中でその網をビリビリと破いて、ウロコをこすり落としながら、さかなを取り出すのだ。なるほど。

 

 ところで、魚は、パドボについてくるのが好きなようだ。静かでゆっくりとしたパドリングだから魚も警戒心を抱かないのかもしれない。鎌倉の山々が紅く染まるある晴れた日、材木座海岸から葉山の菜島までパドボで水上散歩に出かけた。ゆっくりと岸沿いに進んでいたときふと気がつくと海上に小さな泡が浮いてくる。パドボの航跡が作る泡なのかとも思ったが、よく見るとイワシかサバの小魚群れが私のパドボにつられて泳いでいることが判った。パドルを始めると見えなくなるのだが、止めるとボードのすぐ脇に、小さな青灰色の背びれが並んでゆっくりと鰭を動かしている。超カワイイ!!そういえばこんなこともあった。私がスタンドアップパドルボードのレッスンをしたときだ。生徒と和賀江嶋を一回りして帰ってきたとき、小さな波に乗って岸に乗り上げた私のボードのすぐ脇に小さなイワシが砂浜に乗り上げてピチピチ跳ねているではないか、ボードについてきて打上げられたのだとすぐに悟った私はそのイワシ君を両手の中に救いやさしく海に返してやった。以来、私はパドボでパドリングしている時に、ふと、後ろを振り返ってみたくなる。もしかして大きな魚が口を開いてついて来てきているのかもしれないという想像をめぐらせてしまうのだ。

 

 そして旦那様はなんと50cmオーバーの黒鯛まで釣り上げてしまった。これには釣りのベテランまでびっくり!!


 

VOL1「波乗りの歴史を知ろう」NO.4

サーフカルチャー鎌倉物語 其の弐 ・ 開拓者(1960年代)

世界のサーフィンの長い歴史の中で1940年代から1960年代周辺の変革の波は、本当に大きかったのです。
重い木材から軽いバルサ木材を経て、人工のウレタンフォームへと移行した『サーフボード業界においての産業革命』であったし、9〜12フィートの長さが当たり前だったサーフボードが短くなることで、サーフィンのパフォーマンスが変化し、ボードのアウトラインのデザインも様々に試されました。大東亜戦争終結以降「洗濯板」や「フロート」で波乗りしていた日本人に、在日米軍基地を経由してサーフボードとサーフィン雑誌がもたらされました。東西のサーフィン文化が海を越えて交流したのは一瞬で、由比が浜ではちょうどその頃、板こやフロートが絶滅したようです。

 

初めて日本に上陸したサーフボードは、やはり木材の10フィートクラスだったようです。やがてフォームにグラスファイバー(現在の標準になっているプラスチック製)のロングボードがやってきました。
鎌倉は横須賀の米海軍基地から国道134号線で最初のサーフポイントであることと、この基地に勤める日本人が多く住んでいて、地元の若者達が普通に波乗りしているなど、サーフィン文化が根付くのに充分な要素がありました。
「素潜り」や「釣り」や「ヨット」や「フロート」や「板こ」や「手ぶら」など、当時の少年達の夏の遊びが、本格的なサーフィンに、そしてサーフィンビジネスの黎明につながって行くこととなった1960年代になると、逗子、由比が浜、七里ガ浜、片瀬、茅ヶ崎などでは、同時発生的にボード作りを試みる少年達が登場しました。そのほとんどの場合、お手本になったのは当時のサーフィン雑誌だったようです。

 

サーフカルチャー鎌倉でのボード製作の試みはいくつかのグループに別れました。
フロートを参考にして、木材の中空の製法にこだわったグループもありましたが、特に卓越していたのが発泡ウレタン(フォーム)から作った材木座のグループです。
現在「パイオニア・モスサーフボード」の社長であるS少年による材木座発サーフボード製作は、五所神社に程近い、牛乳屋さんのとなりの矢沢家の大きな庭の片隅にあった物置き小屋で始まりました。


この階段の上で歴史的な実験が行われていました。


サーフィン業界で日本を代表するパイオニアS少年達のその製法は、ウレタン樹脂を発泡させて、木で作った型に流して原形フォームを作り、ボードのアウトラインをシェ−プアップしてグラスファイバー加工する!というもの。それは子供の遊びの域を大きく超えていました。
場所だけでなく食事を提供するなど、矢沢家の大人達もおもしろがって応援していたようです。

1965年、S少年が18才の頃のことを御本人に語ってもらいました。
『高校生の時に科学部に所属していて、自作のロケットを飛ばす実験に一生懸命だった。そのロケット本体のノーズ部分の製作にグラスファイバーと、それを飛ばすための燃料としてウレタンゴムを扱うことになった。茅ヶ崎にあった「旭ファイバーグラス」の研究室や、戸塚の「日本ポリウレタン工業」に、電話でアプローチして通い、恩師を得ることに成功。そのノウハウを習得した。これはあくまでも科学部の実験のため。
ロケット実験の他にはヨットで遊んでいて、辻堂でヤマハのヨットを作っていた「リンホース工業」でもFRPの勉強した。

飯島(材木座の東端の集落)に、横須賀基地に勤めていた高さんという人が住んでいた。HANSENのサーフボードを持っていて、サーフィンの雑誌を見せてもらったりした最初の情報源だった。
「ソーサー」を「スキムボード」と紹介されていたのも当時のサーフィン雑誌だった。みんな自分達で板を円く切って作っていた。それに樹脂加工を頼まれることもあったし、デザインのオーダーを受けることもあった。頼まれるとペンキで、絵でもロゴマークでもお構いなく(雑誌の写真にある)そのとおりに作っていた。僕は技術を必要とされるから提供する、欲しい人がいるから作ってあげる。ただそれだけのこと。
そして、円形に切った12ミリのベニヤ板にFRP加工して「CLUB」(かに)というブランド名と蟹のデザインのロゴマークを付けて、鎌倉の銀座通りあったスポーツ用品店に売りに行き、自分達のサーフボード作りの資金源にしていた。値段は数千円で、そこそこ売れた。当時売っていたサーフボードは2〜3万円で、たぶん数カ月分の給料から積み立てなければ、買えなかったと思う。

僕の最初のウレタンフォームは、バケツに樹脂と発泡材を入れて、ハンドミキサーでかき混ぜて、西洋の棺桶型に流して作った。それをシェ−プしてボードの形になって、グラスファイバーと樹脂加工して、海に浮かべて波にも乗った。でも柔らくて、フォームがやせて剥離して水が入って壊れてしまった。
ちょうどその頃、建材用のウレタンフォームの板が市場に出て、それがサーフボードに都合がよかった。棺桶型のフォームの実験はそこで終わり。
その頃サーフボード工場を作ってビジネスを始めたのが阿出川さんだった。今、ボードメーカーをやってる人達は、たいがいそこでアルバイトして、ボード作りの技術を得た。
鎌倉でのモノ作りのキーマンは大島(兄)さん、乗り手で優秀だったのは長沼(一仁さん)。
材木座では平井さんが「DUKE」サーフショップをやって、1967〜8年に「水沢ガラス」という会社が出資して「ウェストコーストサーフボード」というブランドが出来て・・・・・』

田沼社長のお話しは延々と続きますが後略とさせていただいて、材木座発祥の日本のサーフィン業界の黎明紀でありました。やがて1970年代、世界中がショートボード革命の波にのみ込まれてゆきました。・・・つづく

 




1968年に製作された国産サーフボード
オーナー Kazu 植村氏が、当時のミナミスポーツを通じてオーダーしたという。
このボードには、リーシュコードを取り付ける仕組みは無い。
デッキにはワックス替りに垂らしたというローソクに、その当時のワイキキの砂が閉じ込められていた。
残念ながらスケッグは現存しない。







 

VOL 1 「波乗りの歴史を知ろう」NO.3

サーフカルチャー鎌倉物語 其の壱 ・ 古代から近代

日本の歴史をひも解いてみましょう。記録には残っていませんが遠い昔にも板こで遊んでいた子供達がいたはずです。旧石器時代から縄文、弥生、古墳時代までの主な遺跡はそのほとんどが海からさほど遠くないところで発見されています。日本列島のどこにでも貝塚があることでもわかりますが、古代から人は水辺で食料を採取していました。半農半漁(漁業と農業の兼業)の長閑な田舎だった鎌倉に、武士による初めての幕府が成立する1192年頃までの由比が浜でも夏は、子供達が板こ乗りして遊んでいたのではないでしょうか。



鎌倉時代後期成立の歴史書で、鎌倉幕府の公的な編纂と言われる『吾妻鏡』によれば、鎌倉時代は天災が続きました。大暴風雨、洪水、山崩れ、大火事などが頻繁に起り、度重なる大地震に天然痘の爆発的流行といった災厄続きだったらしいのです。日本の歴史で中世と呼ばれる乱世は、それまでの古代王朝が衰退して武士階級が台頭し、内戦に加えて初めて海外(蒙古)から侵略攻撃を受けました。いわゆる戦国時代は誰もが生きるために必死で遊んでいる場合じゃなかったようです。



この時代、別な見方をすれば「日本の変革期」に日蓮聖人という仏僧が登場しました。16才で初めて鎌倉の地を踏み波瀾の生涯の最後には神格化された日蓮さんは、仏教の価値復興者であり新しい価値創造者でもありました。辻説法で民衆のアイドルとなり、物事のタイミングを大切にし、攻撃的な論理を展開する、その教義は仏教の三国伝来(インド〜中国・朝鮮〜日本)の最終章であり、今日では『鎌倉仏教』と呼ばれています。日蓮さんは1222年に安房小湊(千葉県房総半島)の貧しい漁夫の家に生まれたと本人が言っています。日蓮さんも板こを使って泳いだことがあるのではないでしょうか。アウトロー(野の一匹狼)とか、アウトサイダー(野の人)と評されるその生き方は孤高のBig Waverのようです。



鎌倉には日蓮さんのようなパイオニア精神を生み出す風土があるような気がします。鎌倉幕府も武家社会の先駆に違いありません。これまで多くの芸術家や小説家や詩人やサーファーが、鎌倉の地に定住し活動の拠点としてきました。そこに共通して流れるのは世俗的権威に捕われず、精神的権威によって立つ反骨の魂ではなかったでしょうか。


 

近代になって軍用列車が北鎌倉の円覚寺の境内を突っ切って、段葛(若宮大路)の側に鎌倉駅ができました。日本人のお金持ちと外国人の別荘が建ち、材木座海岸に西洋式のホテルもでき、東京などから大勢の人々が遊びに訪れるようになりました。遊び上手な鎌倉人は海での遊びも本気で、工夫しました。



明治時代から続き百余年に及ぶ海水浴場の歴史の中でまず紹介したいのが、『フロート』と言う乗り物です。
材木座や腰越の船大工さんが作っていたという話でありますが、木材の骨組みに薄い木の板をつないで組み立てた箱型の『浮き』(ボードとは呼べない)で、舟底型のボトムでレイルにキールが付いていたらしい。中空の造りのために水抜きの栓が有り、表面にはペンキが塗ってあり、デッキにロープ(?)が付いていて、人は上に立ってオールで漕いで進むのが正統な使用法方であったって、それPADOBOじゃないですか〜!!
それを海水浴場に浮かべて仲間うちでの基地にするのが、当時の姿だったらしいのです。現在50歳以上で子供の頃に由比が浜の海で遊んでいた方なら、覚えている人も多いのでは。



このフロート、昭和30年代頃までは普通に存在し、夏の由比が浜の貸しボート屋の営業品目でもあったのは間違いないのですが、いつ頃登場したアイテムかはよくわかりません。
当時の貸しボート屋さんにお話しをうかがいました。



「じいさん、ばあさんもフロートって呼んでたな。よいフロートは水が入らないが、安物は板に隙間があって中に水が入る。水が入っていると波に乗る時、フロートの傾きによって急にバランスが変わるので、先からひっくり返って(パーリング)身体をぶつけてしまう。水が入る物は隙間にシュロ縄を詰めて、パテで埋めてペンキで塗装して修理した。漕ぐためのオールもセットで貸していた。180cm位の長さの木の棒の両側にうちわみたいな形の木をはめ込むように作ってあって、8の字に動かして漕いで波に乗って遊んだ。立って漕げない人は座って漕いで、波に乗ったらロープをつかんで引いたりしてコントロールする。その頃は遊泳禁止というのは無かったし、波があれば必ず来るお客さんというのがいて、板も貸していた。波乗り用の90〜100cmの板。」

 

サーフカルチャーそうです。いつ頃登場したかわからないアイテムのもうひとつは『洗濯板』です。洗濯機が普及するまでは、どこの家にでもある普通の家庭用品でした。現在65歳になる人の話しでは、自分のお父さんからその遊び方を教えてもらったそうです。若人に念のために説明すると、波乗りにちょうどよい大きさの板こに握るための穴が空いて持ちやすかったのでしょう。それを片手に持って泳ぎ、波乗り(ボディーサーフィン)するのです。身体ひとつでは上手に波に乗れない人のための補助具であった、という話もあります。



フロートはそのネーミングから想像して外人さんのアイデアかもしれませんが、洗濯板は日本古来のアイデアでありましょう。天下太平の江戸時代には大勢が洗濯板で板こ乗りしていたのかもしれません。
次に紹介するのが『ソーサー』と呼ばれた円く切ったベニヤの板で、イメージはコーヒーカップの下に置くあの皿です。海に向かってソーサーを投げて走って行って飛び乗る、今で言うスキムボードがこれ。アメリカで発行されていたサーフィン雑誌に紹介されていたアイデアでした。当時の子供達は浅瀬でかっ飛ばし、スピンをするのがカッコ良かったらしい。



1960年代頃まではサーフボード型やスキムボード型をした自作の板に、ペンキで名前を書いたり絵を描いたりして大切にした思い出をお持ちの方もいらしゃるでしょう。これらの遊び道具は、海水浴条例が制定されボート地区を設定されて以来、その姿を消してしまいました。貸しボート屋のアイテムはゴムボートや浮き輪に替わり、人々は四角いエアマットで波乗りするようになりました。FRP(プラスチック製)のボートが登場して、船大工という職人さんも消えてしまいました。

 

そしてその頃から、本格的なサーフボードを持った人達が登場するようになったらしいのです。初めは海外から持ち込まれたロングボードでしたが、やがて鎌倉でサーフボードを自作する人達が現れました。鎌倉にはこうしたパイオニア精神を持つ人々がその裁量を発揮できる土地柄と言うか、受け入れて同調する人柄があるのでしょう。その話はまたあとで・・・



1956年生まれの奥田哲プロに語らせると、「小さい頃はボディーサーフィンをして遊んだ。仲間うちでは『人間サーフィン』と呼んで、海水浴の人の足の間を潜ったりして驚かすのが面白かった。家に洗濯機があって、波乗り用の洗濯板が2,3枚あったかな、エアマットでも波乗りしたが、ほれる波だと背骨が折れそうになって、けっこうヤバかった。14才の時にサーフボードを手に入れて、家から近い稲村の砂浜に埋めておいて、友人と海に行っては掘り出してサーフィンした。他の海に出かけることはめったに無かったが、自動車と運転免許を持っている年上の人達に、大磯や酒匂に連れて行ってもらった事もある。」というのが1960年代から1970年代の話です。



1967年には、足立区の東京サマーランドの波の出るプールで、スティーブ・ペリンさんというサーファーが、波乗りを披露しました。当時の雑誌『SURFER』に8ページ分の写真と記事が残されています。もしかして、世界初のインドアサーフィンだったのではないでしょうか?



日本がサーフィン業界の礎を築いた1960年代後半から1970年代前半にかけては、いわゆる高度成長期と呼ばれ、日本中がエネルギッシュに変革した時代でした。オーストラリアではショートボード革命が起るなど世界のサーフィングシーンにも何回目かの変革の時代の波が押し寄せていました。・・・つづく


 

VoL 1 「波乗りの歴史を知ろう」

サーフカルチャー板こ乗り

20世紀から今日、世界中でサーフィンはメジャースポーツとなりました。 日本では先の大戦以後、湘南にその歴史は始まる・・と一般には言われますが、『板こ乗り』などと呼ばれる遊びが日本のあちらこちらに、その昔からあったのです。


今でも世界のどこかの海で、木の板を使って波に乗って遊ぶ子供達は大勢います。


20年ぐらい前に奄美大島でイノシシをごちそうしてくれたおじさんから聞いた話では、「昔は堤防がなくて、子供の頃よく泳いだ。帰ってくる時に磯の上では波が勢いを増すので身体が傷だらけになるんだ。で、戸板とか板切れを持っていって、それに乗って波に押されて帰るんだ。それが、おもしろくってさー!そのうちそればっかりやっていたよ。」だ、そうだ。
この話を聞いた時、このおじさんはサーフィン”という名称を知りませんでした。 が、これってサーフィンの根源なのではないでしょうか?

 

安全に岸辺に戻るための行為・・波に乗って岸まで帰る・・サーフィンですよね。 波に乗るために『板こ』を使うのですから、板こ乗りもサーフィンの一種に列挙できるでしょう。 10年ぐらい前にNAMOTU島であったオージーのおじさんに「あなたのサーフィン歴は?」と聞いてみたら、「う〜ん、エアマットの頃を入れると40年ぐらいかな〜」と言っていました。 ね!エアマットも彼の誇り高いサーフィンキャリアなのです。


長い歴史の中でサーフボードの材質が革命的な変化を見たのは1940年代になってからです。 現代の標準となっている、フォームとファイバーグラスで作られるようになったのは1950年代の後半からです。エアマットで波乗りしていた少年とともに、サーフボードは進化して来ました。


 

サーフカルチャーさて、サーフィンの起源が古代ポリネシアの島々に由来することは御存じのとおり。


古代のサーフィンは、やはり『板こ乗り』でした。
サーフボードの材料が木材しかなかったのです。

はたして人類はどのぐらいの期間を『板こ乗り』してきたのでしょう。
ハッキリいって、わかりません。
古代ポリネシアの人々は文字を持ちませんでした。歴史やニュース、習慣や文化をメレと呼ばれる詠唱にして、親から子へ孫へと語り継いでいたからです。


そうしたサーフィンの物語の中には神話にさかのぼるものもあります。


 

サーフィンという言葉がまだない時代、ハワイ語では『He'e Nalu』と呼んでいました。
He'e Naluには波に乗ることの他に、滑る。浮く。溶ける。再生する。自分自身に語りかける。
真理を追求する。などの意味があるそうです。なんとなくわかるような気がします。つまり波に乗って浮いて滑ることで、大自然の真理を追求し、その中で自分自身を知り、マザーネイチャーに溶け込んでリフレッシュすること!・・それがHe'eNaluということでしょう。
うんうん、納得!!


サーフィン史家、ベン・フィニー氏の研究によるとサーフィンは広く、東はイースター島、西はニューギニア、北はハワイ(日本にも板こ乗りがあったが、知らなかったようだ。)
南はニュージーランドにおよぶ太平洋全域に普及していたらしいということです。


もちろん、その中でもハワイアンポリネシアがこのスポーツに与えた影響と功績は、言うまでもなく絶大なものがあります。そのわからないぐらい古くから太平洋の島々でおこなわれてきたサーフィンに人々は熱中していたようです。波が立たない時には神に祈り波を呼ぶ儀式を行なってもいたようです。


 

波乗りという行為についての歴史的な記述を紹介すると、1777年にキャプテン・クックがタヒチ諸島で、現地の人々によるカヌーを使った波乗りと、道具を使わず身体だけで波を滑るボディーサーフィン(湘南、大磯では『手ぶら』という。) そしてその翌年にハワイ諸島でボードを使ったサーフィンを見て、その様子を記録しているのが文字に残る最初のものです。では、その一節

 

サーフカルチャー
パドルは波乗りとともに古くから
島々に伝わる文化だ。

『キャンプを設営したマタバイ岬の周辺を散策している時、私はひとりの男が懸命に小さなカヌーを漕いでいるのを見かけた。しかもカヌーの両側をひんぱんに見回すその様子が普通ではなく、私は興味を持った。観察を続けるうちに彼が一連の動作を繰り返していることがわかった。男はまず浜辺から沖とのあいだの波のうねりが高まるところまで行くと、波が近付いた時に一気に漕いで、波が彼の上からかぶさる位置、しかもカヌーの下を波が素通りしない場所に、たくみにカヌーを寄せる。このあと彼はカヌーに腰を降ろしているだけで、波の押し寄せる速度で浜へと突進する。そして男は沖へ戻り次の波で同じ運動を繰り返す。


波が滑るようにカヌーを運ぶ時、男は至上の悦楽を感じているようだ。他の人々が私達のテントや船のまわりに、もの珍しげに集まっているのに、カヌーの男は何の興味も示さずただ、自分の行為に嬉々として夢中なのである。やがて他にも何人かカヌーで沖へ出ていくと、同じ喜悦の表情を浮かべ、良さそうなうねりが来ると大声をかけ合っていた。


私はこの運動が彼等の間で盛んに行われていることを知った。爽快感で唯一比較できるものはスケートだろうか。いや、彼等はもっと多くの楽しみを知っているのだろう。』


 

キャプテン・クックは見事に波乗りを言葉で表現しその精神安定効果をも見抜いて、カヌーの男達が波乗りに心奪われていることを理解しています。
クック船長やキング副官の航海日誌と同行した画家、ウエーバー氏のスケッチが(当時、写真機はまだない。)イギリスで出版されると、ハワイは多くの冒険家のあこがれとなり、19世紀になってヨーロッパに大航海時代(人々が帆船で世界旅行ができるようになった。)が始まると、ハワイは多くの訪問者を迎えることになります。


旅行者達は波乗りの様子を見て目からウロコが落ち、その魅力の虜になる人も出始めました。 当時はハワイアン達のサーフィンを見ているだけで、サイコーのアトラクションでした。


・・・・・つづく


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VoL 1 「波乗りの歴史を知ろう」 NO.2

サーフカルチャーWAIKIKI BEACHBOY STYLE

さて、貿易風に帆を張ってアメリカ大陸からハワイを訪れる観光客の中には、自分自身でサーフィンを楽しもうとする人々が現れました。小説『トム・ソーヤの冒険』で知られるマーク・トゥエンさんは、見事なワイプアウトを体験したらしくこんなエッセイを残しています。『ボードは何も乗せない汽車のように浜へと突進し、私は酒樽何杯分もの水とともに海面に叩き付けられた。』(ラ、フィング イット 1866年)


1866年、 波乗りする人をこの時代には、まだサーファ−とは呼んでいなかったようです。    
サーフボードライダー(波乗り板に乗る人)と呼んでいたらしい。    
日本語に直訳したら、まさに『板こ乗り』ではないでしょうか?


やがて写真機(今のカメラとは似ていない)が旅行のアイテムとなった時代、優雅なハワイの人々の中 には、ビーチでボードを貸し、サーフィンを教え、それを撮影するサービスを商売にする!が現れたらしいのです。お客さまの大切なカメラを濡らさないように、水上で撮影するための技!
それがスタンドアップパドリングだったわけです。 観光客がサーフィンできる程度のコンディションにカメラのストラップを首から下げて、立ったままパドリングアウト。ピークからテイクオフした時には誰よりも先にすでに立っているので、そのままカメラを構えてシャッターを押す。
そうして当時の貴重なサーフィングシーンが写真に残されたのですね・・
21世紀を迎えた今も同じサービス業が存在しています。
地球上の波のあるところの立派な地場産業ですね。
もちろん道具もカメラも近代化されました。
日本ではデジカメをハウジングに入れて、パドルに付けちゃうのが最新オクダ式です。(padodo cam)


 

必要から生じた生活の妙技の事をご当地HAWAIIでは「ビーチボーイ スタイル」と呼ばれています。
ワイキキの浜辺が発祥なので、正しくは「ワイキキ ビーチボーイ スタイル」と呼びます。
で、波の乗るのが「ワイキキ ビーチボーイ スタイル サーフィン」という長〜い正式名称です。
近代サーフィンの父と呼ばれるデューク カハナモクさんもワイキキを代表するビーチボーイ、 仲間とともにこのようなビジネスをしていたのではないでしょうか。
当時それは、カヌーとともにハワイ観光の花形商売だったのかもしれません。
パドボって、ものすごく格調高いビーチアイテムな気がしてきました。


 

デューク カハナモクさんはサーファーなら誰もが知っているだろうレジェンドでしょう。 初めてハワイから出場したオリンピックの競泳選手で、2度の金メダリストでもあります。 真水とスタートが苦手だったにもかかわらず、驚異の世界記録保持者でした。 靴をはいたアメリカの人やヨーロッパの人達にくらべて、いつも裸足のデュークさんは足ひれのように大きな足をしていたらしい。そしてイルカのように泳いだのでしょうね。


そしてデュークさんは「波乗り文化大使」でもありました。 競技会で出向いた先々でサーフィンをし、さらに多くの人々にその魅力を紹介したのです。 1915年オーストラリアでのエピソードです。オーストラリアの水泳協会がデュークさんにサーフィンのエキジビションを依頼しましたが、その時デュークさんはボードを持っていませんでした。

 

そこで松材の板から彼自身がサーフボードを作ったそうです。
『8フィート6インチの長さで裏側にくぼみを持っており・・後略』と記録されています。
デュークさんはコンケーブの入った素晴らしい板こをつくったのです。
よいサーファーは、よきシェパーでもある。さすがですね。
そしていい波に乗って見せちゃったんでしょう!
その頃からアメリカ本土やオーストラリアのサーフスポットでは多くの若者達が、波乗りとそのための道具作りに時間とエネルギーを注いでいました。
サーフボードの材質が石油化学製品にとって変わる半世紀ほど前のことでありました。



・・・・・ALOHA


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